三聖病院院長、宇佐晋一先生の講話録です。
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今日は、講話の中で、歎異抄のお話があがりました。
歎異抄は、親鸞の死後、浄土真宗の門徒で沸いた異議・異端を嘆き、親鸞の直弟子、唯円が文をしたためたものです。
森田先生の説かれた森田療法が、原法と異なる形で世に広まっていること、
そのことに対する嘆きを、先生の講話の中でも、度々伺います。
歎異抄の話題を通じて、唯円の姿が想起させられ、
院長先生の成されていることと、唯円の姿勢が重なり、先生が成されていることの深淵さを、改めて感じました。
【 MEMO 】
・ 予想が裏切られて初めて真実の姿があらわれる。
・ 「そうか、なるほど」納得がいけない。
・ 自分にとって、何とかしなければいけない相手。哲学の言葉で「対格」という。考える相手。
・ 本来は外。心の方には、対格はありえない。「これが自分だ」という主体が明確になって、対格が生じる。
・ 「これが自分だ」という自己像が組み立てられない。それがほんものである。
・ 対象化して、自分に迫ってくる、対立する今までの症状の負けそうなもの。
治そうとすればするほど、絶対負けない、治されてたまるものかという症状の抵抗が立ち消える。ありながらにして消えてしまう。
・ 思い出は、考え、思考。
・ 言葉をつかわない。それだけで、事体はなにもこの状況として変わらない。
・ (先生の)前にあるものが、「マイクロフォン」という名前を失う。途端にみなさんには、マイクロフォンでないものが、ぱっとみえる。
・ モノと名前を結びつけて、切り離さない状況になっている。
・ ついでに決めてしまったのが、残念ながら失敗。
・ 自己実現とは、ぶっつけに、本来の自分が言葉で誤魔化されずに、その場面場面に現れている働き、そのものをいう。
・ 心の管理者、司令塔になるのをお止めになる。対格がなくなると、自分が自分をこうしようああしようということがいらなくなる。これが森田療法の妙味。
・ 「おどろきなばそのままにてよろし、用心すれば二つになる」
・ 雷を怖がらないでおこうと用心すると、そうしようとする心と、雷が怖いという心の二つにわかれてしまう。
・ 治そうとする自分と、治されようとする自分が別れた以上、そこからひとつにはならない。
・ 二つになったらほっとくだけ。外の大事な事柄に手をだして進むと、あっという間にひとつになる。
・ 自己意識がぱっときえる。
・ 人間の意識には、二つが同時に成り立たないという原則がある。
・ 外のことどころでない。自分のことで、もういっぱいです。こうなる。
・ 全治とは、自分のことを忘れるとか、解決するとかどうのこうのでなしに、なるとおり。自分が気になったら気になったで、なるとおり。
・ 全治とは、神経症になることもできる状態である。どっちもです。それが大事である。
・ ありとあらゆる心の状態が全治である。
・ こころという言葉をいうてもいけない。
・ 中はただ、感覚と感情の世界のままにしてしまわれる。
・ 気持ちの上で辛いようにみえる。乗りかかった船に乗っていかれる。
・ 案ずるより生むが安し。これも具合が悪い。案じたら、案じたまま。
・ 清水の舞台から飛び降りる決心で。
・ わからないけれど、そういわれたままで、そのとおりにしているだけのこと。これが覚悟。どうなるかしりません。
・ (森田先生)「僕の言うことは信じなくてよろしい。ただ僕の言うことを実行すればよろしい。」
・ 意識的に全治することなど、有り得ない。
・ 瞬間的全治
・ 見抜くというのは実行。
・ これほど自分が考えで駄目になっていたことが、後でおわかりになる。
【黒板MEMO】
・ 自己像 (セルフイメージ)
・ 他者意識 自己意識
・ 対格
・ 歎異抄 親鸞 唯円
【掛軸】
「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す これを苦楽超然という 昭和2年7月 森田形外」
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author : 金田 倫子
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